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1975〜
■小・中学校時代


1982〜 →
■高校時代


1985〜
■本田技研・南海時代

1988
■南海時代

1989〜
■ダイエー時代

1998〜
■阪神時代

2002〜
■近鉄時代


節目になる時って、とにかくきつい!
<高校時代>


高校、これが寮生活やったんですよ。もう、嫌で嫌で、1か月くらいしたらもう寮出たくてね〜。まあ、何でも本格的にやり出す節目っていうのが、なにもかも、一番しんどい時ですよね。分からない事ばかりで、この時は、はじめて硬式に変わった時ですから。毎日球拾いとランニングの世界ですよ。走ってばっかり、打たんでええ。走っとけ、球拾っとけ。3年生の先輩との「差」もすごく感じてたし。その頃って、体格もそうだけど、体力の差ってごっついあるじゃないですか。全然ちゃうでしょ!もう先輩は、できあがっとるんですよ、僕はこれからっていう時じゃないですか。もう〜水は飲めないし・・・そんなんでもう「やめたい〜やめたい〜」いっつも思うとった。

出逢いも多かった<高校時代>

1年生の時は唯一、僕とマツモトとリョウスケの3人がベンチに入ることが出来て。その時はライトやったんですけどね・・・。新チームになってからピッチャーをやらされるようになったんかな。
監督の内川さんが、いろんな人脈を持ってる人で、そのおかげでいろんな人に教えてもらいました。阪神の編成部長の田丸さん、桐蔭高校の監督をやっとった木元さん、いずれ社会人の監督になる大塚さん、日産自動車のキャンプにいって池田さんとか、今監督してる村上さんとか。そういう意味じゃあ、何も知らんかった世界の視野が広がったというか、ちょっと変わりましたね。

高校の時の成績は新チームになって、秋の九州大会予選で優勝して、翌選抜ですよね。開催地大分で、第1代表でベスト8、勝ったらベスト4その時久留米商業に、2-1で勝っとって7回に逆転3ランを打たれてたしか4-2か5-2で負けて。で、甲子園行けなくなったんですけど、あん時の九州は久留米商業の山田、現近鉄投手コーチコウダ、熊校高村、・・・なんせ、すごいピッチャーばっかりやったんですよ。池田高校に水野さんがおった時代です。

すごいメンバーで、いける!はずが・・・
<高校時代>


2年生の夏は、これはもういけるで〜いうて、それでみんなでがんばろうって、がんばったんやけど。決勝で、中津工業に負けてしまったんです。僕らはノーシードだったんですよ、大会前に肩壊してて、ノーシードで1回戦からだったんで、甲子園まで全部で5か6試合勝たないといけなかったんですけど、準決勝まで全部完封だったんですよ。決勝も5回までゼロで、6回に1アウト3塁で、ベンチからウエストのサインが出て、スクイズがあるかもしれないからって。それをなんか無視してしもうてバッテリーが、でスクイズ決められて1-0で9回までいって、9回裏に同点においついて、2アウト3塁で僕にまわってきて、1本打っとたら甲子園だったんですけど。監督には「初球まっすぐきたら狙え!」、っていわれてたんやけど。まっすぐきたんやけどいちばん嫌いな高めで、中途半端なバッティングしてしもて、ライトフライで終わって。延長に入って10回の表に1点取られて、でその裏に同点に追い付いて。まだ1アウト満塁で、もうこれはぜったい外野フライでもいいから打ってくれって思ってて、うちの3番のやつでね。で三遊間にライナー“カーン”て打って、「抜けた〜よっしゃ〜」と思ったら・・・、向こうのやつが飛びついてファインプレーですよ。で2アウト。2アウト満塁で、今度はうちの4番。それがまたおよび腰で・・・、カーブにおよいでしまってセカンドフライで点が入んなくて、延長11回に僕も2点取られてしもうて、それでもう万事休すだったんですよ。4-2で負け!また(甲子園)出れなくて。

“まっすぐ”しかなくて。<高校時代>

3年の夏は、また大会の前に肩壊して、治ったんだけど、なんかちょっとバラバラやったんですね。3回戦で負けたんですね。なんか近そうで、遠い甲子園やったんスよね。ここででてれば、1本打っときゃ、ここで抑えてれば、みたいな。まあ、高校の時になんせ変化球が投げれなかったですから。まっすぐしか投げれなかったから。あそこでカーブとかが投げれたら、もっと抑えられてたですよね。